パリの郊外暮らし

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2006年 11月 20日

ヴィクトル・ユーゴー通りの最古参、我らが愛すべきクロード

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 えっ、また凱旋門? という声が聞こえてきそうだけど、その通り。昨日は私たち親子、凱旋門の周りを珍しく徒歩で移動した。

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 今日のお目当てはここ、ヴィクトル・ユーゴー通り。道の名前を示すこの小さな看板の下には、1802-1885、作家、詩人、政治家と、彼について記されている。

 さて、凱旋門を背にして右側の歩道を歩いて行った一番最初のカフェ、エスメラルダで待ち合わせをしていたお相手は、先日79才の誕生日を迎えたクロード・・・彼はちょうどこの向かい側にあるアパートの7階の、中庭に面した日当たりのいい一室で一人暮らしをしている。俗にいう、「一人暮らしのご老人」だが、彼の実態はそのイメージからは程遠い。

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 写真撮るよ、って言ったら色んなモノ満載の紙袋の中からもうひとつの帽子を取り出してじゅんぺいにもかぶれ、って・・・そう、彼は無類のかぶり物フェチなのだ!

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 彼と出会ったのは私がパリで暮らし始めてまだ間もない18年前のこと。セーヌの中洲にあるイル・ドゥ・ピュトーという島のテニスコートにて・・・。当時まだろくにフランス語が喋れなかった私を相手に、どちらかというと難しい言い回しのフランス語でえんえんとまくしたてる変わったヤツだったが、自分のコートに招いてくれてありとあらゆる人種の人たちとテニスをさせてくれたりと、いつもいつもそれはよくしてくれた。そこのコートに来る殆ど全ての人と友達になれたのはもちろん彼のおかげ。

 じゅんぺいがお腹にいるときも、妊娠6ヶ月ぐらいまでは彼らと一緒にテニスをしてたし、じゅんぺいが生まれた翌日にクリニックに駆けつけて来て、自慢のニコンの一眼レフで最初の写真を撮ってくれたのも彼だった。

 彼の生きざまを通して古きよき時代のパリを垣間見ることもできた。彼はこの界隈(パリの16区の中でも特にブルジョワ地区)でお医者さんだったお父様と、16才で彼を産んだ輝くほど美しいお母様のもとで何不自由なく育つ・・・特注のブガッティを乗り回す20才そこそこのお母様と、その横にちょこんと一緒に写ったクロードの1930年代の白黒写真を見せられたときには、「こ・・・これぞ、本モノのパリジャン!」と感動。映画「華麗なるギャツビー」の世界そのものだった。

 成り行きとして医者の道を進むべく医学部に進学するがほどなく退学・・・「ボクは病人と相対していられないんだ」という、ものすごくナイーヴな彼に、医者になれというのは所詮無理な話だった。

 その後、彼は戦争に赴くが、「ボクは、誰ひとりとして殺したことはない!」という言葉どおり、どんな状況にあっても、なんとか殺さないですむ方法を見つけては回避し、無事にパリに戻ってきたらしい。

 20才でアメリカ人と結婚。1人の娘が生まれるが、程なく離婚。ちなみに母親のもとで育てられたその娘は医者となり、2人の孫(男の子)にも恵まれる。彼らは同じ16区に住んでいて、今でも時々会っているそうだ。

 その後、スウェーデン人、ドイツ人、ベトナム人の女性と夫婦同様の生活をするも、結婚だけは2度としない・・・という意志を貫いた。それほど、彼は離婚によって傷ついたのだった。それぞれの女性たちとの別離が訪れたのは、彼女たちが「結婚したい」というのを拒んだのが原因だ。それでも、5年間生活を共にしたドイツ人の彼女(その後結婚し、男の子をもうけるが離婚)とは今でもしょっちゅう会って一緒に食事をしているし、14年間一緒に暮らしたベトナム人の彼女とは、別れた彼女が他の人と結婚してからも10年以上のあいだ(彼女が定年を迎えるまで)毎日彼女の職場の近くで一緒に昼食をとり続けてたっけ・・・!

 不思議なことに、彼は一度たりともフランス人女性とは付き合わなかった。察しのいい方はもうおわかりかと思うが、彼は自他共に認める筋金入りのマザコン・・・彼にとっては、一番美しくて知性に溢れ、なおかつ永遠の憧れの存在である母親が最高のパリジェンヌ! 他のフランス女には、誰1人としてまるで魅力を感じなかったそうだ。

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          (2000年の初夏のある日、ピュトーのテニスクラブにて)

 相変わらず頭の回転が速くて元気なクロードだったが、フランからユーロへの変換があだとなり、健康を害してしまった。まさかこんな弊害が起きようとは・・・!

 2001年の暮れ、彼は珍しく風邪をひいた。熱もかなりあった。にも拘らず医者嫌いの彼はひとり家でじっとして具合のよくなるのを待っていたのだが・・・年が明けて2002年を迎えた夜中の12時に、なにがなんでも最初のユーロ紙幣を拝みたい! という衝動にかられてしまったのだ。熱のせいでかなり寒気を感じていた彼はいつもより厚着をして、用心深くヴィクトル・ユーゴー通りに下りて行く。そしていつものATMで念願・お初のユーロ紙幣を手に入れた後は、るんるんと暖かい家に戻ってじっくりお札を眺める・・・はずだった。

 アパートに戻った彼は、自分の家の玄関に入ったところで足を滑らせて転んでしまう。そしてその拍子に両足が家具の下に入り込んだまま身動きが取れなくなってしまったのだ。運の悪いことにその晩は小雨が降っていて、彼のいつもピカピカに磨かれた革靴の底が滑りやすくなっていたのと、かなりの熱でぼーっとしていたこと、それに厚着をしていたことも災いした。彼はどうあがいてもそこから出られずに朦朧とした状態で朝を迎えることになる。たぶん、半分は意識がなかったのではないだろうか。そして翌朝、私たちが「あけましておめでとう!」の電話をかけても、当然クロードの返事はなかった。後に涙ながらに語ってくれたところによると、身動きのできないそれはそれは苦しい状態で、彼は私たちが留守電に向かって一生懸命喋っているのを聞いていたのだという・・・その時のクロードの心境を思うと、本当にいてもたってもいられない気持ちになる。

 そんな地獄のような24時間の恐怖から彼を救ってくれたのは、別れた一人目のアメリカ人の奥さんとその娘だった。この日が元旦であったことを神様に感謝せずにはいられない。私たちと同様、彼女たちもクロードに「あけましておめでとうコール」をしたのだが、携帯にも家の電話にも答えないので緊急事態を察して、ポンピエ(消防隊)を従えてアパートの管理人に鍵を開けさせたのだった。ほぼ奇跡的に発見されるに至った彼は脱水症状でかなり悲惨な状態だったくせに、どうしても病院には行かないと言い張ったそうだ。(まったく・・・)
 クロード、どうしたかなぁ、といやな予感を抱えたまま心配し続けていた私たちのところに彼からの電話がきたのはそれから2週間ほど経ってから・・・。ちょっと弱ってはいたものの、元気な彼の声を聞いた私たちが心の底からほっとしたことは言うまでもない。

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   (2002年、快気祝いに一緒に大好物の牡蠣を食べる Chez Scossa 16e)

 その頃から、徐々にテニスこそできなくなってしまったクロードだが、その毒舌は健在! 喋り出したら止まらないのは少々困りモンだけど、一緒にヴィクトル・ユーゴー通りを歩くと、知り合いのお店一軒一軒に声をかけずにはいられないクロード・・・物乞いをしているおじさんにさえ名前で呼びかけて、乞われればタバコ代の3ユーロを惜しげもなくあげてしまう。自分だって年金生活のはずなのに・・・ホントに心優しいヤツなんだよね・・・! 彼は、日本を遠く離れて暮らしている私たちにとって、付かず離れずの家族みたいな大切な存在。いつまでも元気でいてほしい。

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    (行きつけだったピュトーのベトナム料理レストランにて、右はサービス係のキム)                                  
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by maVieestBelle | 2006-11-20 20:29 | パリの景色


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